女神の乳房 第14話
必ず連絡するから、昨日の約束を思い出した裕美子は掃除機の手を休めた。
会うかどうかは別にして、とりあえず渉に連絡だけはしておくべきだと思ったのだ。連絡だけでも入れておけば約束を破ったことにはならない。それに彼との糸も切らなくてすむ、そんな打算的な考えからだった。
もう正午も近い、迷惑な時間帯ではないだろうと思って電話を取った。十回ほどコールして待ったが、渉の声を聞くこともなく事務的な留守番電話の声に変わった。もう一回だけ、と思い再び十回コールしたが結果は同じだった。
(たぶん仕事で出れないのね。やっぱりわたしたち縁がなかったんだわ)
わずかな希望を押し込めるように受話器を置いた。再び掃除機のスイッチを入れると、裕美子を日常に戻す機械音が唸りを上げ始めた。
その音の隙間をぬうような電話のベルが聞こえた。一瞬だけ、渉からのおり返しの連絡かと思ったが、鳴っているのは携帯ではなく家の電話であった。
誰かしら、小首をかしげながら掃除機のスイッチを止めた。
「はい、小笠原でございます」
「奥様……でしょうか?」
低い男の声が受話器を伝わってくる。聞き覚えのない声に嫌な予感がした。
「初めまして。先日お送りした手紙は読んでもらえましたでしょうか?」
セリフを棒読みしているような無味乾燥な口調が裕美子の耳に響いてきた。突然の衝撃に受話器を落としそうになった。
(ついに来るべき時が来てしまった……。人生の転落の始まりが……)
動揺を悟られぬように受話器を両手で握り締め、
「何のセールスでしょうか?」
そうとぼけて見せるのが精一杯だ。
「セールスじゃありません。先日お送りした手紙の件ですよ。本当の事ですよ、あの手紙に書いたことは」
「どうしてうちの番号を……、知ってるんです?」
「失礼だとは思いましたが調べました」
「何が目的なんです……、あなたは……」
膝が震え、眩暈がしてきた。部屋全体が巨大な影に覆われたようで、裕美子の目の前は真っ暗になった。
「手紙に書いたこと……ですよ」
低い声は自身をもって答えた。
受話器をハンカチか何かでくるんで話しているようで、年齢も見当がつかない。感情を押し殺しているが、口調も丁寧で、からかっているようにも聞こえない。
「そんな……、どこの誰ともわからない人にお会いするわけにはいきません」
「無理は充分に承知の上です。こんな言い方はしたくないんですが……、わたしの記憶と引き換えに貴女の肉体をもらいたい、つまりこれは取引です。取引をもちかけているのがわたしで、それをどうするか判断するのが貴女なのです」
理論整然とした口調には微塵の乱れもない。
「取引を断ったら……どうなるのです?」
「さあ……、どうでしょうか。貴女は断らないと信じていますよ、賢明な貴女なら……」
「少し考えさせていただけません?」
混乱の中でつい言ってしまった。しまった、と思ったがすでに遅かった。今の返事で手紙の内容を認めたことになってしまう。裕美子の返事に男は間髪入れず、
「もちろんです。わたしは強要するつもりはありません。あくまで貴女ご自身の判断で結構です。でもわたしは決して貴女に害する者ではありません。それだけはお忘れなく……」
熱のこもったしゃべりが裕美子の胸をざわつかせる。受話器を持った手にも汗が浮かんできた。
(人の身体を要求しておいて……、害する者じゃないだなんて……そんな言い方ってあるの……)
口には出せなかった。
「それでは明日のこの時間にもう一度連絡します。その時に最後の返事を聞かせて下さい」
「ちょっと待ってください。たった……、たった一日で決めろとおっしゃるんですか? せめて一週間ぐらい……」
必死の懇願に裕美子の声が大きくなった。知らず知らずのうちに相手の話に引き込まれているのだ。
「そうです。二十四時間でイエスかノーか決めてください。わたしには時間がないんですよ」
「……そうですか……。わかりました……。それでは明日……」
有無を言わせぬ相手の口調に裕美子は弱々しく答えた。
「また明日連絡します」
最後までていねいな口調で電話は切れた。ゆっくりと受話器を置くと、身体中の力が抜け、崩れるように床に座り込んでしまった。うつろな視線で部屋中を見回す。対照的に心臓は激しい鼓動を打っている。
(何なのよ、今の電話は……)
冷静になろうと努めるものの、なかなか混乱は収まらなかった。
過去からの恫喝者は明日までと期限を切ってきた。つまり今日中に決断しなければならないのだ。
(もう少し、もう少し時間が欲しい……。冷静に考えられる時間が……)
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