女神の乳房 第10話
裕美子の翌朝の目覚めは快調だった。
昇る朝日がこれほど爽やかに感じられたのはいつ以来だったろうか。ここ何日か悩まされていた夢を見ることもなく、熟睡することができた。
先日の不気味な手紙のことだけが気がかりだが、こちらからはどうすることもできない。相手の出方を待つだけだ、そう割りきることにした。渉との再会が裕美子に大きな安心と希望をもたらしていた。
いつも以上にテキパキと家事を済ませ、弾むような気持ちで携帯を握り締めていた。自分でも顔の筋肉が緩んでいるのがはっきりとわかった。しばらく携帯の画面を見つめ、
「昨日の今日だしね……、早すぎるかな?」
渉からの電話を待っているのだ。まだ午前九時を少し過ぎたところで、サラリーマンにとっては一日が始まったばかりだ。いくら何でもまだかかってくるはずはない、それは分かっているのだが裕美子は携帯を手放すことができない。
「こんなに早くにこっちからかけるわけにもいかないし……」
連絡したいのはやまやまだが、あまりもの欲しそうに思われても心外だ。
(今日は彼からの連絡を待とう。もし連絡がなかったら明日の昼過ぎにでもこっちからかけよう)
時間がたつにつれ、渉に会いたいという気持ちが強くなっていた。しかし自分から連絡するのは抵抗があった。
(そうと決まったら今日は本でも読んで過ごそうっと)
ソファに寝転んでページをめくり始めた。
何とかアパートにたどり着くと、裕美子はしっかりと鍵を閉めてチェーンもかけた。
心臓がバクバクと音を立てて踊り、喉がカラカラに渇いていた。ハイヒールで走ったので足首が痛む。捻挫でもしたようだ。這うようにして玄関から部屋に入る。明かりの無い部屋に、留守番電話のメッセージランプの点灯が目にしみる。おそらく渉からだろうが、裕美子の目には機械的な点滅信号にしか思えなかった。
ひと息つくと、服を全部脱いで洗濯機に叩き込み、狭いユニットバスで頭からシャワーを浴びた。石鹸をたっぷりつけて何度も何度も身体洗う。あの男の酒臭い息と腐ったような唾液の臭い、そして獣のような野蛮な感触が消えるまで何度も……。全身を熱湯消毒したい気分だった。
(忘れてしまいたい……、夢であって欲しい……)
繰り返し裕美子の脳裏を往復した。
身体がふやけてしまうほどの入浴を終えると、急に疲労感に襲われた。髪も乾かさず、バスタオル一枚の姿でベッドにもぐりこむと、そのまま意識を失ってしまった。眠ることですべてを忘れてしまえることを祈りながら……。メッセージランプは点滅し続け、裕美子に呼びかけているようだった。
翌日はいつものように七時に目が覚めた。手足に鈍痛がする。男に殴られた頬も少し腫れている。激しい雨が窓を叩いていた。
「やっぱり現実なんだわ……」
身体の傷や痛みが、昨夜の忌まわしい出来事が事実であることを雄弁に物語っていた。鏡をのぞくと、そこにはいつもと変わらぬ自分がいた。きれながの目に長い睫毛、とおった鼻筋と小さな唇、化粧をしていないと十代と言っても通用しそうなみずみずしい肌。
「でもあなたは昨日のあなたとは違うのよ……。今のあなたは人を殺したかもしれないの……」
搾り出すような声で告げると、大粒の涙がこぼれ出してきた。あいかわらずメッセージランプが点滅していたが、聞く気にもならなかった。裕美子のしゃくり上げる声も雨の音にかき消される。泣いても泣いても涙は途切れることなく流れ続ける。
(あの時つまらない口ゲンカで渉の車を飛び出さなければ、こんな事にはならなかっただろう。近道の公園を通らずに、回り道だけど大通りを行ってれば……)
後悔がどんどん膨れ上がり、肌のべとつきが不快感をつのらせる。
「こんな格好のまま寝ちゃってたんだわ……」
全裸の自分に初めて気づいた。身体には、まだあの男の臭いが染みつき、それが部屋中に澱んでいるようだ。
降りしきる雨の中、窓を開け部屋の空気を入れ替えた。シャワーを浴びてジーパンとシャツに着替えた。身体がさっぱりしたためか、ほんの少しだけ気分が良くなった。
「そうだ、新聞」
そう呟いて、朝刊を開く。目を皿のようにして読んでいくが、交通事故が二件に政治家の汚職が一件、昨夜の事件については載っていない。地方版にもそれらしい事件にはふれていない。新聞に載っていないということは……、
(もしかしてあの男、生きてるのかしら)
天からの啓示のように閃いた。苦し紛れに自分の都合の良いように考えてみる。それならどんなに嬉しいだろうか。
(たまたまこの新聞には載っていないだけなのか、それとも夜遅かったから朝刊には間に合わなかったのかも……)
裕美子は他の新聞を買うために傘を差し、駅の売店に足をむけた。
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