女神の乳房 第5話
『小笠原裕美子様
突然お便りを差し上げます。
おそらく貴女はわたしのことをご存じないでしょう。この手紙でクドクドと自己紹介をするつもりはありません。あの夜の出来事を知っている者、とだけ申し上げれば、聡明な貴女のことです、すぐに思い出していただけるでしょう。
あれからもう十一年が過ぎました。わたしも一度は心の奥底にある思い出の金庫にしまいこみ、そのまま忘れるつもりでした。けれども何年か前にその金庫の扉が突然開いたのです。それからというもの、時の流れとともに薄れていくどころか、しだいに色濃くなっていき、あのひとコマがより鮮明に浮かび上がってくるのです。苦悶の表情で切ない声を振り絞る貴女。必死で抵抗し、その刹那に見せた神々しいまでの美しさ。
貴女も今は幸せに暮らしていることと思います。
もしも貴女に、わたしの燃えるような思いが届くのならば、一度でいいからお会いし、貴女の身体をこの両腕に抱きしめたいと思っています。
骨が砕けるほどの熱く激しい抱擁、そして貴女の柔らかな唇を吸い、深みのある白い肌に舌を這わせ、貴女の最も奥深くにある部分を貫きたいのです。
きっと貴女のことですから美しく年を重ねられているでしょう。あの頃の清楚な美貌に人妻としての妖艶さが混じり、いっそう美しくなられていることと思います。たった一度でかまいません、貴女と心身ともにひとつになってみたい、そう願うばかりの毎日です。
今回はこれで失礼致します。お会いできる日を待ちわびながら。
貴女の美を崇拝する者より 』
手紙を読み終えた裕美子は、全身の血が逆流するほどの驚愕を覚えた。灰皿に置いた煙草を消すのも忘れて唇を震わせる。便箋を凝視する目は焦点が定まらない。
(まさか……、まさか見ていた人がいたなんて……。何てこと……)
膝が震えだし、眩暈さえ感じた。天井が揺れ、タンスが揺れ、座っているのに足元から崩れていくようだった。
(こんなことって、こんなことってあるの……)
大声で叫びたい気持ちに駆られた。
懸命に忘れようと努めてきたあの夜の出来事。
結婚をあきらめ、人生に絶望し、自殺まで考えたほど彼女を追いこんだあの忌まわしい記憶。夫はもちろん誰も知らないはずなのに……。記憶とともに太ももの古傷の痛みも甦ってきた。傷跡をさすると、涙腺がゆるむのを感じた。
(何で……、何で今ごろになって……)
文面には、裕美子に対して露骨に身体を要求するようなことが書かれているが、具体的にどうしろとは記されていない。ただ自分の欲望をペンを媒体にぶちまけている、といった様子だ。
(何故、何故なの?)
この手紙の主は自分の住所も名前も知っているのだ。それなのに自分は何ひとつ相手のことは知らない。
胸が軋むような不安が裕美子の華奢な身体を包む。
この事を夫が知ったらどうなるだろうか、もしかしたら今の生活を失うことにもなりかねない。いや、間違いなく失うだろう。
(いったいわたしはどうすればいいの、どうすれば……)
この生活を失いたくない。
しかし、自分が今の生活を続けられるかどうか、それが見知らぬ男の手に握られているのだ。未知の人間に生殺与奪の権利を握られているのだ。いつ爆発するかもしれない時限爆弾を抱えているように……。
裕美子の中に悔しさと憤りが渦巻いてくる。怒りにまかせて手紙を破り捨てると同時に大粒の涙がとめどなくこぼれ出した。結婚以来初めての悲しみの涙だった。
何も考えることができず、ソファに顔を押しつけて声を殺して泣き続ける。夕闇の迫る薄暗い部屋は、一人の女の悲しみで埋め尽くされた。
そして朦朧とした裕美子の頭に、あの夜の出来事がはっきりと甦ってきた……。
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