女神の乳房 第32話
「素敵なんて陳腐な表現はその人に失礼なんだけど、僕の乏しい語彙にはそれしかないから仕方ないか。とにかく素敵な人だからもちろん結婚はしてるよ。きっと幸せなんじゃないかな。ただ手が届かないっていうのは結婚してるからってわけじゃないけどね……」
「そこまで思われたら女として本望ね……。その人が羨ましい……」
目を細めて貴彦を見る。
「本当にそう思う? 本望だって……?」
手が微妙に震えているようだ。唾を飲み込んだのか、喉仏が大きく動いた。
「ええ……、本当よ。でもそこまで思ってくれる人は滅多に居ないでしょうけどね……」
裕美子はあの男の顔を思い浮かべながら断言した。そして自分を見つめる彼の目が、普段と違う輝きを放っていることに気づいた。
「どうしたの? そんなに怖い顔して……」
「……裕美子さん、貴女のことなんだ……。僕が今話した人は裕美子さんのことなんだよ……」
鈍い光の中には、すべての邪心を払い落とした澄みきったものも見えた。
「えっ?」
自分でも間の抜けた声だったと思う。貴彦が何を言ったのか理解するのに少し時間がかかった。
考えもしなかった。夢にも思わなかった。義理の息子とはいえ、初めて会ったときには彼はすでに十八歳の青年だった。だから子供だと思っていたわけではない、自分は当初から貴彦を一人の男として見てきたつもりだ、裕美子は思った。ただそれは義理の息子というフィルター越しの姿だが。
「ずっと前からなんだ。あなたが父と結婚する前から今日までずっと……。ずっと思い続けてきたんだ……」
純真な少年のような瞳だ。
(いったいどういうことなの?)
喜びよりも驚きが先行してしまうのは無理もなかった。
(でも、あの瞳……、どこかで見たことがあるような気がする。いつだったろう、遠い昔に……)
「高校生のころかな。まだ母親と暮らしてころ、裕美子さんのアパートの近くに住んでいたんだ。きっと知らないと思うけど」
昔を懐かしむような遠い目つきになる。
「少しでも母親に楽をさせたくてね、新聞配達をしてたんだよ。裕美子さんの部屋にも届けてたんだ……」
短くなった煙草を灰皿に押しつける。
「何度か手渡ししたこともあるんだ。その時なんか手が震えちゃってね、“おはよう、ご苦労様”って声をかけてもらったよ。こんなに綺麗な人がいるんだ、そう思ってさ、それからは虜になっちゃったよ」
貴彦は苦笑いを浮べた。
裕美子のアパートからほんの二、三分の所に住んでいたらしく、通勤途中の裕美子の姿を陰から見ていたのだと言う。高校生から見た二十三歳の女は、まぎれもなく大人の女だろう。そういえばそんな少年がいたような気もするが、記憶にはっきりとは残っていない。
「そんなに、近くに」
うつろな響きの裕美子の声だ。どう話を続ければいいのか見当もつかない。
「今で言うストーカーみたいだけど……。別に変な気持ちをもっていたわけじゃないよ。ただ純粋に憧れの人の姿を見たい、守りたいっていう、そうだな騎士みたいな感情かな……」
夫に貴彦を初めて紹介されたときのことが思い出された。
あの時の彼の驚いた表情、あれは若い母を迎えた驚きではなく、憧れの人を母と呼ばなければならない無念さだったのだ。
自分が淡い恋心を抱いていていた相手が、いきなり母として現れた時の驚き……、もちろん近くに居られる喜びもあっただろう、しかし同じくらい失望感ももったのではないだろうか。
「それからずっとだよ……、もう十年になるね。だから僕は一度もお義母さんなんて呼んだことはないよね。認めたくなかったんだ……、あなたが義母だなんて。あなたにはずっと僕の女神でいて欲しかった……」
そこまで自分のことを慕っていたなんて……、裕美子は内臓がえぐられる思いがした。身体が熱くなり、下半身のほうからジンジンと何かが登ってくる。男に抱かれたときのような感じだ。
「だから……、だからあなたのことは全部知っている。その白い肌の温もりも、身体のすみずみまで……。あなたを二度も抱いたのは僕だから……」
強烈な一撃が裕美子を襲った。
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