十字架上の貴婦人 第5話
「それでお迎えはどれくらいで?」
これ以上金井を責めても仕方がないと思った。それに、たまに夫から頼りにされると嬉しいものだ。
「外回りをしている水田という者が伺いますので、おそらく十分前後で」
「承知しました。準備してお待ちしております」
電話を切った貴和子は、すぐに夫の携帯へ連絡を入れた。顧客とのやり取りのために、いつも離さず持っているはずだ。しかしコールはするものの、金井の言った通り出る様子はない。
「本当……」
諦めて受話器を置き、夫の書斎を調べた。
法律書や経済書が、所狭しと並べられた図書館のような部屋だ。机の右側の書棚の右から三番目……。
「あったわ」
宝物を探し当てた気分だった。目的の黒いファイルを抱えて書斎を出ると、貴和子は急いで身支度を始めた。
外で夫に会うのは久しぶりである。書類を届けるだけの小間使いのような役目だが、貴和子はまるでデートにでも行くように高揚していた。
着替えが終わりハンドバッグを手にすると、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。時計を見ると、電話を切ってからきっかり十分だ。さすがに夫の下で働いているだけあって、時間には正確である。
「おはようございます。水田と申します。お迎えに上がりました」
玄関の外には、長身の三十前後の男が立っていた。精悍な顔つきで、いかにも夫の部下らしいシャープな印象だ。
「お世話かけますが、よろしくお願いします」
貴和子は軽く一礼すると、白い四ドアセダンの後部座席に乗り込んだ。窓には薄く黒いフィルムが貼ってある。
彼女は久々に着用したミニスカートの丈が少し気になったが、水田はそ知らぬ顔で丁寧にドアを閉め、運転席に乗り込んだ。夫の待つセントラルシティホテルまでは、およそ一時間ほどだ。
昨日の朝、夫を送り出してから丸一日会っていないだけなのだが、何故か久しぶりのような気がする。それだけ自分が夫を恋しがっているのかもしれない、そう考えると昨夜の蜜戯が思い出され、頬が熱くなる。
「朝っぱらからお手数をお掛けして、申し訳ありません」
運転しながら、前方を注視したまま水田は言った。
「いいえ、こちらこそ。主人のうっかりでよけいな仕事をさせちゃって」
貴和子はバックミラーに映る水田の顔を眺めた。
彫が深く、見方によっては陰気そうにも見えるが、なかなかの男前だ。ギリシャの彫刻のような鼻の高さが、ひときわ目を引く。
――いけない、主人に会いに行くのに――
視線を逸らし、水田の陰影に富んだ顔立ちにうっとりしかけた自分を諌めた。
車は市街地を抜け、高速道路のインターの方へ向かった。通勤ラッシュの時間帯は過ぎているが、それでも一般道は混んでいる。
「書類のファイルは、すぐお分かりになりました?」
信号待ちで止まった際に、水田がバックミラーを介して聞いてきた。
今まで気づかなかったが、爽やかな香水の匂いがする。いかにも彼の容姿に会いそうな香りだ。
「ええ。主人の書斎へはほとんど入らないのですけど、すぐに見つけられました。そんなに大事な書類を忘れるなんて、そそっかしい人」
思わず軽い冗談が飛び出す。
「奥様の方がよほどそそっかしいですよ」
「え?」
貴和子は何を言われたのか意味が分からない。
「電話一本で、見知らぬ男を信用するあなたの方が、よほどお人好しってことですよ」
柔らかだった水田の声が、獲物を捕らえた獣のような声に変化した……。
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