女神の乳房 第31話
「どうしたの? 急に相談だなんて」
スーツ姿の貴彦をリビングに案内してソファを勧めた。彼は無言で身体を沈め、ふうっと大きく息を吐いた。
「紅茶で良かったわよね?」
キッチンに行きかけた裕美子に、
「裕美子さん、ちょっとここに座ってよ」
貴彦は答えた。思いのほかの真剣な表情に少し驚いたが、言われるまま向かいのソファに腰をおろした。
「そんなに大事な話なの?」
うつむきかげんの貴彦の顔を覗きこんだ。その問いに彼は無言でうなずく。
「もしかして……、もしかして美登里さんのこと……?」
それとなく、聞いてみたかったことを口に出した。貴彦は再び無言でうなずくだけだ。
「そんな大事な話なのにわたしでいいの……?」
裕美子はテーブルに頬づえをつき、小首をかしげた。ジーパンにトレーナーで髪を束ねた姿が、いつもより彼女を若く見せている。どこかあどけない少女の雰囲気を備えた笑みに、貴彦は戸惑っているようだ。
「煙草、吸っていい?」
ため息が半分混じった言葉に、裕美子も無言で灰皿を差し出した。火を点けて一口だけ大きく吸い込み、横を向いて煙を吐き出すと、彼はすぐにそれを揉み消した。
「美登里さ……僕以外にも男がいるんだ……」
憎しみという響きより、むしろ投げやりのようなだった。
頭の片隅で多少は想像していたとはいえ、言葉にすると重く響く。美登里さんが……。「まさか」と言うべきか、「やっぱり」と答えればいいのか。
「あなたの知ってる人なの?」
ならば昨日の姿は愛人との逢引きのためだったのだろか、裕美子は切れ長の目を細めた。貴彦は首を振り、
「ご主人が亡くなってからずっとらしいけど……。僕の知らない人だよ」
まるで人ごとのようなセリフだった。
「あなたと婚約してるのに……?」
さらに驚いた表情をしてみせたが内心は複雑だった。
(人妻の身で夫以外の男に抱かれる女もいるのよ、あなたの目の前にね……)
もう一人の自分が心の中で呟く。義理とはいえ、自分の母親が浮気をしているのを知ったら貴彦はどう思うだろうか。
「ご主人が亡くなった直後はさ、淋しかっただろうし、頼れる人が欲しかったんだろうと思うからね、別にそれはいいんだけど……」
再び煙草をくわえ、続けた。
「僕と知り合ってからも続いているのが……何ともやりきれない」
婚約者に裏切られたというのに、貴彦には怒りはおろか、悲しみもそれほど感じられない。声を震わせるわけでもなく、拳を握り締めるわけでもない。感情が昂ぶるどころか、いつも以上に冷静だった。まるで友人の噂話をしているような軽さが裕美子には理解できなかった。
「それで美登里さんとは話したの?」
「うん……。夕べはっきりと言ったんだ、君とはやっていけないって……」
自分と出会う前の事は詮索するつもりもないし、実際にしていない。だから別に他の男と肉体的な関係があったとしても、それはかまわない。ただ自分と交際を始め、しかも婚約した後もその関係を続けているのが許せない、彼は言う。
確かにその通りだと裕美子は思った。いくら好きな相手でも、そんな侮辱を受ければ三行半をつきつけたくなるのは当然だろう。
「美登里さんは何て言ってた?」
貴彦の心配をしながらも、裕美子の好奇心は刺激された。
「泣いて謝ったよ……。絶対に別れるからやり直したいってね……」
吐き出した煙を目で追う。
「でもきっぱりと別れを告げてきたんだ……」
サバサバとした表情だ。今まで背負ってきた責任やしがらみをおろした安堵感からだろうか。
「そう……実はね、わたし昨日美登里さんを見たのよ、Pホテルのロビーで」
“ロビーで”という部分を強調して言った。
「お友達と待ち合わせてたのよ。昨日の午前中かな。そこで着飾った美登里さんを見かけたの。もちろん向こうは気づいてないみたいだけど」
うなずくだけで、貴彦はさして驚いた様子も見せずに煙草を揉み消した。
「てっきりあなたと会うんだと思ってたけど……、違ってたのね」
あの時自分が声を掛けたとしても結果は変わらなかったのだ、裕美子は自分自身を納得させた。
「話はわかった。あなたは別れる決心をして、それを美登里さんに伝えたわけね」
「うん……」
「でもわたしに相談って言ってたわよね?」
あえて自分に話を持ってきたのだから、彼の真意は別なところにあるはずだ、裕美子はそう思った。しゃべりづらそうな態度からもそれは感じられた。
「他に話があるんでしょう?」
裕美子は足を組み替え、膝の上で手のひらを組み合わせた。
「美登里と僕が別れた理由は、結局のところそれだけじゃないんだ……。美登里に愛人がいた事にはもちろんショックを受けたけど、それはきっかけであって、ある意味氷山の一角にすぎないんだ……」
ときおり目を伏せ、貴彦は淡々と話す。
「彼女のことは好きだったし、一緒にやっていこうと思ったから婚約もしたんだ。あの時の決心にうそはなかったんだ。でも……」
「でも何なの?」
詰問調になりがちなのを抑え、裕美子は優しく聞いた。
「僕らが別れた理由は……、やっぱり僕にあるんだ……。僕が悪かったんだ。どこかに彼女を受け入れない気持ちをもっていたから……、それが彼女にはわかってたんだ、だから……」
途切れ途切れの言葉は、聞き取りにくいほどの小声だった。
静かに熱を帯びてきた貴彦の言葉は、裕美子にとって不可解なことだった。
「彼女は……、美登里は本能的に悟っていたんだ。僕の気持ちが本当は別の人に向いていることを……。おそらく自分はその人の代役なんだと自覚していたんだと思う。そんな惨めさや寂しさから他の男の優しさを求めたんだ……。だから、本当に悪いのは彼女をそこまで追い込んだ僕の方なんだ……」
神の前にひざまずいて懺悔をする哀れな子羊のようだ。裕美子と視線を合わそうとしない。
「別の人……?」
思わず口をついて出た。彼には他に好きな人がいたのだろうか、それならばどうして美登里と……。
「僕には、他に好きな人がいるんだ……」
小さいが、はっきりとした声で言った。
「ただ僕なんかには手の届かない所で生活している人なんだ……。雲の上の人、高嶺の花、そんな存在かな……。だから手近なところでその人に似ている相手を探していたのかもしれない。もちろんそんな意識は無かったけどね……。それが美登里だったんだ。」
唇を舐め、貴彦は続けた。
「美登里と結婚を決めたのも、その人のことを諦めようと思ったからなんだ。絶対に手の届かない人だから……。でも……、できなかった。美登里と結婚すれば、多分それなりには幸せに暮らしていけるとは思ったけど、結局は僕からしてみれば彼女は身代わりなんだ。彼女の背後にはいつもその人の影が見え隠れする。そんな状態では彼女を侮辱しているようだし、何より自分自身が許せなかった。負けるのが怖いから戦わない、敵を目の前にして逃げ出してしまうような卑怯な自分が……」
貴彦の話は裕美子の想像を越えていた。思わぬ展開に、口を挟むこともできず、じっと聞き入るしかない。
「今ならまだ引き返せる、そう決心した時に美登里に愛人がいることがわかったんだ……。自分勝手な言い分だけど、僕の立場からすれば非常に幸運だった。一方的にこっちが悪くならなくて済んだしね……」
自嘲ぎみな笑みを浮かべた。溜まっていたものを吐き出して楽になったのだろうか。美味そうに煙草をふかす。
「そうなの、あなたにそんな人がいたなんてね……。それで、どんな人なのその人……?」
ここから先は裕美子の好奇心だった。義母としてどんな相手か知っておきたいという使命感みたいなものも少しはあったが。
「どんなって……、難しいね。そう……、美しくて繊細で、聡明で品があって、それから匂うような色気もあって……。例えるなら、“女神”みたいな人かな」
「女神?」
一瞬ドキッとした。
あの男が裕美子に対して何度も口にした言葉だ。狼狽が顔に出ていないか心配になった。だが貴彦は気にする様子もなく、その“女神”について話を続けた……。
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