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女神の乳房 第17話

2008/04/01 18:43 



 ウイークデイの昼間だが、Pホテルのロビーは混んでいた。スーツ姿の人が多く、ほとんどが会社関係の待ち合わせだろう。裕美子のように女一人で佇んでいる人も何人か居た。早めに出てきたので、約束の一時まで少し間がある。
 どの人だろうか、目立たないように人々を観察した。
 疑いの目で見ると、どの人も怪しく思えてくる。いったいどんな男なのだろうか、顔は、年齢は、体格は、職業は。さまざまな妄想が脳裏をよぎる。
 グレーのスーツの上に茶色のハーフコートをまとった裕美子には、ロビーの暖房が少しきつく感じられた。どんな男か分からないが、あまり変な格好もできない。どちらかといえば地味な色のスーツにしたのだ。膝丈のスカートに化粧も薄めに整えた。コートを脱いで手に持つ。結婚直後に夫から買ってもらったコートなので何年も前の物なのだが、裕美子は一番気に入っていた。それにこのコートを着ていれば、もし危険があっても夫が守ってくれそうな気がしたのだ。いわばお守り代わりだ。
(どこかでわたしを見張っているのか)
 ストッキングの足元から悪寒が上ってきた。まだ見ぬ男への不安の表れだ。バッグからハンカチを取り出して膝の上に広げる。

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(知っている人に会わないことを祈るばかり)
 携帯電話が振動で着信を知らせると、裕美子は素早く公衆電話のある所に移動した。
「時間どおりに来ていただいてありがとうございます」
 また声の調子が少し変わっていて、今回は携帯からのようだ。やはりどこからか裕美子の姿を見ていたようだ。ロビーの柱時計がちょうど一時を指している。
(何かおかしい……)
 戸惑いの中で違和感をもった。
 あの男の記憶にあるのは十一年も前、まだ学生気分の抜けきらないころの自分の姿のはずだ。三十四歳になった自分をこれだけの人ごみの中からどうやって見分けたのだろうか。いくら体形がそれほど変わっていないとはいえ、さすがに十一年前とは髪型も服装の趣味もまったく違っているのに。
(何故すぐにわかったのかしら? こんなに人がいるのに……)


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 待ち合わせと思われる女が他にも居て、携帯電話で話をしている者が何人も目につく。そんなに簡単にわかるはずがない。
(まさか家からわたしをつけてたの?)
 裕美子の疑問をよそに、
「903号室に居ます。エレベーターを降りてすぐの部屋です」
 事務的な口調だった。努めて感情を表に出さないようにしているのがはっきりと分かる。
 素性を隠している男が(しかも裕美子にとっても内密な話をするのに)、こんなざわついた場所に姿を見せるはずはない。部屋を取っているのは当然といえば当然だ。化粧室に寄って自分の顔を鏡で確認する。
(落ち着くの)
 鏡の中の自分に言い聞かせ、懸命に脳細胞を絞る。
(結論として……。男は今のわたしの姿を知っているということだわ)
 つまり、男は今までも自宅や立ち回り先で、どこからか裕美子の姿を見ていたということだ。
(だとすると、知っている人かもしれない……)
 幸いにも、エレベーターには裕美子一人だった。九階までノンストップで駆け上がる。
 すぐに「903」のプレートが目に入った。廊下には人の姿もなく、静寂そのものだ。ドアの前で目をつぶって一回深呼吸をし、ゆっくりとノックした。返事は無かったが、裕美子を異次元の世界へと誘う扉が音を立てずに内側に開いた。
 吸い込まれるように室内に足を踏み入れた。暗い、裕美子は思った。カーテンを閉め切っているのだ。机の上の小さなスタンドが細々と光っているだけだ。

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 無情な金属音を響かせてドアが閉まった。覚悟はしていたのだが、背筋を冷たいものが流れる。この部屋が男と自分だけの孤島になってしまったと感じずにはいられなかった。
 男は軽く裕美子の背中に手を触れ、エスコートするように暗い室内を案内する。いやらしさはなく、少なからず思いやりさえ感じられた。柑橘系の香水の匂いが漂う。小さな応接セットがぼんやりと見え、そこへ座るようにうながされた。
 コートを椅子に掛け、テーブルを挟んで男と向かい合った。上目づかいで男の顔を盗み見る。どうやら黒いサングラスをかけ、マスクまでしている。自分の顔を見られたくないのが明らかだった。服装までもが黒っぽい。
「今日はわざわざありがとうございます」
 初めて男が口を開いた。マスクをしているうえに声色を使っているので、依然として年齢不詳だ。
「まず始めにこちらの手の内を明かします。先に貴女の身体をいただくのはフェアじゃないですからね」
 気味が悪いほどの紳士的な態度に、身構えずにはいられなかった。
「あの夜のことです。おそらく貴女はずっと長い間悩んできたんでしょう」
 男の言う通りだった。
 結局、事件の顛末は新聞に載らなかったのだが、寝ては夢にうなされ、起きては怯える毎日に裕美子は堪えられなかった。思い切って警察に行くこともできず、悩みに悩んだ。そして実家に帰ることになったという理由で会社を辞めてアパートも引き払ったのだ。行くあてはなかったが、わずかな貯金を頼りに放浪し、それが尽きたところで死ぬつもりだった……。
「自分は人を殺した。確かに正当防衛だったかもしれないが、人を殺したことに変わりはない。そう思っているのでしょう」
 噛んで含めるような言い方だ。やっぱりこの男にあの現場を見られたのだ、十年以上前のことだが、この男の言うとおりだ、裕美子は観念した。
「あなたの……、あなたのおっしゃる通りです……」
 涙がこぼれそうになる。十年以上守り続けていたものが壊され、築き上げてきたものが音を立てて崩れ落ちる。
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「もう終わりだわ……」
 消え入りそうな声、堪えきれない涙が頬をつたう。殺人の時効は十五年だと聞いたことがある、例え正当防衛だとしても人を殺していることに変わりはない。
(でも……この男に骨までしゃぶられるぐらいならば……いっそ自首しよう)
 八年も世話になった夫に迷惑はかけられない。わけを話して離婚してもらってから自首しよう、奇妙なほど冷静になった頭での決断だった。
「わたし自首します……」
 しゃくり上げながら言う裕美子に、ちょっと、と言って男は手を上げた。マスク越しの声が少し興奮しているようだ。
「何を言ってるんです。貴女は大変な勘違いをしていますよ」
 席を立ちかけた裕美子を制し、
「そんな話ならわざわざ貴女を呼んだりしませんよ、そうでしょう。電話でその旨を話して脅迫するか、自首を勧めるか、それだけですよ、そう思いませんか?」
 圧倒するような熱をもった男の口調に、裕美子も座りなおした。
「わたしが……、わたしが話したかったのはその後のことですよ」
「その……後……?」
「そうです。貴女は浮浪者のような男に襲われ、必死で抵抗しました。相手は泥酔していたとはいえ男です。力と力では女が敵うはずもありません。そこで貴女は自分を守るために、手にした石を暴漢の頭に振り下ろしました。怒りの鉄槌というところでしょうか」
 男は身振り手振りをまじえて話した。いったん言葉を切り、裕美子の様子を窺う。思い出したくない場面だが、間違いなくそうだ。
「頭への一撃で動かなくなった男を見て、殺してしまった、そう思ったはずです。どうするべきか躊躇し、そして逃げるように現場から立ち去った」
 淡々とした口調だが、裕美子の心理状態も分析されている。
「それからわたしはしばらくそこに立ち止まっていたのです。雨が降り出してきましたが、倒れた男をじっと見ていました……」
 ゆっくりと間を取りながら男は続けた。
「どれくらい経ったでしょうか、男が動き始めたのです」
 裕美子は思わず目を見開いた。
「首を振り、血の流れる頭を押さえながら立ち上がりました。足もとはふらついていましたが、予期せぬ一撃に気を失っていただけのようでした」
 男が何を話しているのかわからなくなった。自分の事なのか、それとも架空の話なのか……。
「酔いと激痛で頼りない足取りでしたが、小雨に濡れながら歩いて公園を出て行きました……」
 にわかには信じられなかった。それが本当ならば今までの悩みは何だったのだろうか、裕美子は次の男の言葉を待った。
「つまり貴女はずっと思い違いをしていた。怪我を負わせただけであって殺してはいない、という事なのです」
 ぼんやりとした男の輪郭から、強い自信が感じられた。嘘をついているわけではなさそうだ。
「うそ……」
 思わぬ展開に、自分が興奮しているのがはっきりとわかった。身体が熱くなり、体内の水分が蒸発していくように喉の渇きを覚えた。


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